便利さとその裏側 -
石川 英輔 著  「大江戸えころじ−事情」 


良いだけのことはない
私たちは、ひたすら良い生活、つまり便利さを求め続けてきた。
文明開化派の進歩的な人は、進歩して便利になることの長所についてしか知らず、もちろん教えてもくれないから、日本人は便利になることで生じる不利益についてはほとんど考えることなく、進歩への道を突進してきた。おかげで、現在の私たちは、人類始まって以来といっていいほど恵まれた暮らしをしている。個人的にどう感じていようが、これは客観的な事実だ。お金を持って店ヘ行けば、食料でも衣類でも白由に買える。普通に働いていれば飢えや寒さに苦しむことはない。しかも、今の日本では、ちょっと海外旅行をする、あるいは乗用車を持ってぐらいでは、賛沢のうちにも入らないのである。
カラーテレビや電気冷蔵庫が贅沢だといえば、小学生でも笑うだろう。1970年代頃まで、SFスパイ映画に登場するエリート諜報員専用の小道具だった超小型携帯電話でさえケータイという気楽な名前になり、ビジネスマンはもちろんだが、大学生でも持っているのが当たり前で、いずれは小学生の大部分が日常的に使うようになるだろう。
 また日本はもっとも長生きの国になった。体の具合が悪ければ、三桁の電話をかけるだけで、消防署から救急車がかけつけて無料で病院へ運んでくれる。さらに、日本は先進国の中でもっとも安全な国だ。人口当たりの強盗件数は、アメリカの100分の1以下、フランスの70分の1、イギリス、ドイツの30分の1程度にすぎない。
白米のご飯を腹一杯食べるのが夢だった敗戦後のあの悲惨な生活に比べれば、今の日本人の大部分は一ほとんど貴族のような暮らしをしているといってもけっしていいすぎではない。だが、今のように恵まれた世の中がいつまで続くのか、不安に感じている人も多い。代償なしで手に入るものなどこの世に一つもないことは、大人の常識だからである。
話は飛躍するが、現在の日本で刑務所に服役している人が5万人足らずなのに対して、アメリカでは約220万人だそうだ。アメリカの人口は日本の二倍なので、服役者が10万人なら日本なみだから、単純計算でも人口当たりでは22倍にもなる。一桁違う。
アメリカが日本よりずっと豊かで進歩した民主主義の国であることは、うんざりするほど聞かされてきたし、今でも、すべてをアメリカ式にしてしまえといわんばかりの論調が盛んだ。多分・アメリカ式にすれば、もっともっと豊かになれるのかもしれないが、しばらくたってから予想もしなかった形で反動が来ることは保証してもいい。少なくとも、犯罪は激増するに違いない。
このまま豊かさと便利さをひたすら追い求めるのが正しい生き方なのかどうか、不安に感じる方が、人間として健全な感覚ではないかと思う。
豊かで便利になることには誰も反対しない。私自身、空調機、乗用車、パソコン、ワープロ、コードレス電話、FAX、ガスストーブ、洗浄器つき水洗便器、浴室用暖房装置等々、さまざまな便利な道具を使っている。とても質素で素朴とはいえない生活だから、他人さまにお説教をする資格などありはしないのだ。
かつての〈公害〉は、一部の悪徳企業の儲け第一主義のせいだから、資本主義の欠点だといって他人のせいにできた。だが、最近になって噴き出してきた大量の廃棄物つまりごみ処理の問題や、深刻な環境間題を始めとするさまざまな問題の原因に対しては、ますます便利になっていく私たち自身の生活の責任が大きい。やっかいなのは、自分自身を含めた大勢の人類がいわば犯人なので、特定の誰かのせいにして済まなくなっている点なのである。相応の支払いこんなことになってしまった最大の原因をもう一度書くと、エネルギーの使いすぎである。
一次エネルギー総供給量(1996)から逆算すると、今の日本人は、大まかにいって一日に原油換算で12.5リットル分のエネルギーを消費している。1リットル当たり9400キロカ
ロリーとすれば、117500キロカロリー。10万キロカロリーとは、セ氏0度の水、つまり氷が溶けたばかりの状態の冷水1トン、普通の家庭用浴槽なら5杯分を沸騰させるのに必要な熱量だ。私たち自身は、けっして賛沢な暮らしをしているつもりでなくても、毎日これだけのエネルギーを使わないと暮らしが成り立たなくなっている。といっても、日本は先進国の中ではエネルギー消費が特に多い方ではない。一人当たりでは、OECD加盟諸国平均の八五パーセント程度でアメリカの半分ぐらいだが、発展途上国の平均値に比べれば五倍になる。いずれにせよ、私たちの便利で豊かな生活は、膨大なエネルギー消費のうえに成り立っているが、使うエネルギーの約85パーセントが、石油、石炭、天然ガスなどのいわゆる化石燃料だから、毎日使うエネルギーのうちほぼ10万キロカロリーは、化石燃料を燃やして得ているところが大きな問題なのだ。
なぜかというと、燃やした化石燃料は大気中の二酸化炭素などを増やすばかりで、けっしてもとに戻ることはないからである。私たちは、気軽にリサイクルという言葉を使っているが、よく考えると、今の生活は、基本的にリサイクルできない一方通行型の資源の上に成り立っている。
いわゆるリサイクルでさえ、毎日10万キロカロリーもの膨大な化石燃料消費の範囲で行っているのだから、せっせとリサイクルをしたところでエネルギ−消費の伸びをおさえるのがやっとというところだろう。口でいうのは簡単だが、本当の循環型社会を作るのは、現状では非常にむずかしいどころか、不可能に近いことを覚悟しておいた方がいい。
明治の文明開化以後の百数10年間、わが国では、進歩して便利になることを無条件に良いこととして受け入れてきた。実際、次々に現われる新しいものを使えば、目に見えて楽に暮らせるようになったから、そのことを疑いもしなかった。うっかり進歩主義に反対しようものなら、因循姑息、時代遅れ、反動的などとののしられて、ばかにされる時代が長く続いたし、世の中が新しいものを中心に変化するため、進歩を受け入れなくては生きていけなくなってしまった。
ところが、私たちが支持してきた進歩もけっして無から生じているのではなく、便利な生活を支えているのは江戸時代と桁違いに多いエネルギー資源の消費である。わらじがけで旅をする時のエネルギー源は食料だけだが、蒸気機関車で旅をするためには大量の石炭がいる。しかも、工業的規模で石炭を掘るためには、そのエネルギー源として、また相当量の石炭が必要なのだ。
あんどん行灯で夜間照明をしているぶんには、昨年度とれた菜種油や綿実油を燃やすだけだから、太陽エネルギーの範囲で済むが、明るくて便利な石油ランプを使えば、化石燃料の石油を燃やさなくてはならない。
日本版の産業革命つまり文明開化は、こうしてエネルギー源を太陽から化石燃料に切り換えることから始まった。それ以来、世の中が便利になればなるほど、化石燃料エネルギ−の使用量は増え続け、太平洋戦争やオイルショックのように例外的な時期以外には減ったことがない。私たちは、便利さを買うにはお金を払えばいいと思っているが、もしエネルギーの供給が断たれれば、たとえ札束や金貨を山のように積んだところで、現在の恵まれた便利な生活を続けることはできない。進歩や便利さの程度は、化石燃料をどれだけ効率良くたくさん使えるかで決まるのである。まだ進歩の水準が低かった頃、たとえば、火打ち石がマッチになって喜んでいた時代なら、進歩イコール便利さという感じだったはずだ。進歩にともなう利益は昧わっても、不利益を感じる機会は少なかった。しかし、進歩は加逮する。以前は、あわただしい状態を表現するのに「日進月歩」といったも
のだが、最近の情報技術関連の変化などは、「秒進分歩」と表現する人もいるほどだ。わずか10年前でさえ想像しなかった便利な新製品が突然現われて、見る見るうちに社全に広がっていくというような激しい変化が起きて、産業の構造までが変わっていく。便利になればなるほど、生活が向上してみんなが幸せになるだけならば、進歩を素直にほめたたえていれば済むが、残念ながら人の世はそう単純ではなかった。どんなことにも代償がいるの
は大人の世界の常識だが、素晴らしい便利さを楽しませていただくためには、ここでもお金以外に相応の支払いが必要だった。
 つまり、便利さの程度が大きくなると、文明開化を素直にほめ讃えていた頃には考えもしなかった不利益がさまざまな面で表に現われて、次第に悪い影響が目立っようになった。これが、相応の支払いなのだ。

 

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